活動レポート

【第3回】

皆さまお元気ですか?お疲れさまです。いつも応援ありがとうございます。池脇まさひこ(池脇雅彦)です。現在、午前3時35分。ワールドカップの表彰式が行われている中、私も元気で頑張っています(笑)

皆さま、寝不足ではありませんか?ワールドカップの決勝戦。アルゼンチン対フランス。まさに激闘の名勝負となり、素晴らしい試合でしたね。本大会はPK戦での決着が多かったですが、決勝戦も3対3からのPK戦とは・・・。ほぼ徹夜してご覧になられた方も多いのではないでしょうか?また4年後にならないとこの興奮は味わえないのかと思うと少し寂しい気がします。ワールドカップについては、前回もブログでご紹介しましたが、やはりオリンピックを凌ぐ世界最大のスポーツイベントといってよいのではないかと思います。これほど、世界中の人々を熱狂の渦に巻き込むスポーツイベントはありません。

さて、そのワールドカップの話題に関連して、今回は前回に引き続き、「サッカーのお話②」ということで、今季、ルヴァンカップで優勝、天皇杯準優勝、Jリーグ3位の『サンフレッチェ広島』についてお話します。サンフレッチェは、今季不振の広島東洋カープに代わり、広島県民の心を躍らせてくれましたね。

実は私、ワールドカップを担当するより、さらに前の1990年(平成2年)に、サンフレッチェ広島の創設について担当しました。今では珍しくありませんが、当時の広島は、プロスポーツは広島東洋カープだけでした。アマチュアスポーツとプロスポーツの区別が、今では考えられないほど厳しいものであったことから、カープは広島市役所の経済関係の課が担当していました。

ところが、当時、広島市も広島県もスポーツを統括していた担当課が教育委員会にあり、サッカーのプロ化を機会に、カープもサンフレッチェも教育委員会が担当することになったのです。そして、公務員が株式会社役員に就任する。つまり教育委員会のトップである教育長が株主として取締役に就任するという、当時としては、大変な出来事だったのです。出資額も当時として破格の1億円。市役所内に事前に説明にいっても常識外れだ、やめろ、考え直せなどと言われ、本当に大変でした。このため実際に起案書を持って、担当者といっしょに関係局を回りましたが、決裁印を100人以上からもらいにいくという超重要案件として取り扱われました。今にして思えばよい思い出ですが、当時は本当に大変でした。

サンフレッチェ広島には、もう一つ忘れられない思い出があります。それは初優勝した1994年。優勝が決まると同時に広島市役所の南側(国泰寺交差点)に「優勝おめでとう」の懸垂幕を掲出したとき、信号待ちの車の中から次々と「おめでとう」の声が。本当にうれしかったです。2年後に広島市中区基町にサッカースタジアムが完成します。素晴らしいスタジアムができると伺っています。坂町からも多くのサポーターが応援に行かれることを願っています。

そういえば、ご存じの方もおられると思いますが、30年前、サンフレッチェ広島設立当時に、トップチームがトレーニングしていた場所は、坂町鯛尾にありますマツダトレーニングセンターのサッカー場でした。もう少し、トレーニングセンターが広ければ、今でもサンフレッチェ広島のトレーニング場であったのではないかと思います。今、考えてみても、惜しいことをしたなと残念に思います。サテライトトレーニング場にならないか、などと、今でも考えてしまいます。

今回はこのあたりで失礼します。皆さま方も寝不足の方が多いと存じます。通勤や作業など、安全に気をつけてください。私も地道にこつこつ頑張ります。応援よろしくお願いします。

ではまた次回ブログでお会いしましょう。年末です。交通安全や、コロナの感染防止などに気をつけて、皆さまお元気でお過ごしください。

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